「球体の奏でるリズム」シリーズのCGには意味性というものが基本的に存在しない。それら図形は一定の秩序によって生まれているが目的をもって作られていない。従って、何のために作るのか?という問いかけ自体が無意味だ。
それは中身の入っていない空箱を延々と作る行為に似ている。空箱は「空」であるから、中身は何も無い。ただ、そこには「空」がある。
「空」があるという書き方はすでにパラドックスだが、禅問答にも似ている。
先にアートは、製作者の「想い」によってアートたらしめていると書いたが、ここには「想い」自体が存在しない。ただ単にあるのはプロセスのみだ。
プロセスを楽しみ、500個という生成物が生まれた時点で、量的変化が質的変化を生む場合が出てくる。つまり、空箱を数個作っても面白くないが、空箱を500個とか1000個とかつくりつづけると、そこに次第に何らかの想いが生まれ始める。
ここで、意味と無意味に戻ろう。
これら元々目的のない行為は無意味である。しかし、その行為から生まれた成果物は「無意味な行為を続ける私」によってフィルタリングされ、さらに「選別」という方向性を与えられる。無意味を繰り返す方向性をコントロールすると、そこに意味が生まれるのだ。
カオス的に生まれるエネルギーに干渉する私に依ってエネルギーに秩序が生まれ形態化していく。それは無から有が生まれるプロセスに似ている。
例えば、水の分子自体はブラウン運動を繰り返す無秩序なエネルギーの塊である。それらが集団化して海となるが、そこに地球の自転が作用して「波」という現象を生む。
では、「波」自体の意味とはなんだ?それに正確に答える事の出来る人はいないだろう。
これが今回の「球体」の正体だ。
球体の奏でるリズム
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