大潮の干潮ピークは15時。そこの潮どまりが好都合だ、とマド船長とは話していた。

印刷

 

 大潮の干潮ピークは15時。そこの潮どまりが好都合だ、とマド船長とは話していた。干満差の大きい有明海では潮の流れが中央と沿岸で違っていて長崎側の苓北とのせまいところは沿岸で時速14kmで流れているところもあるという。

 ぼくも体験的にそのことは知っていた。天草の北岸でカヤックでイルカの群れに遭遇し、追いかけているうちに予想外に流された。元の地点までもどるのにそうとう時間を使ったおぼえがある。海は池や湖と違い、常に流れている。本流も反転流もある。海水浴場以外では泳がない方がいい。遊泳禁止の看板は警告ではなく本気だと思うべきだ。

 河内女性の会の中川さんが赤飯とごはんのおにぎり、卵焼きを作って来てくれた。

「なあんね5人くらいかと思たらおおかねえ!」15人はいる。早起きして食べ物を準備してくれたのだろう。

 河内漁協の嶋田さんも出て来てくれた。塩屋でおきるこのできごとを喜んでくれていた。もってきた河内ののりの自慢をしながらかいがいしく手伝ってくれる。剛哲丸にのってついてくるという。

 日本の女性はありがたく、優しいものだ。波止場で風が吹く中みんなで食べる。日当りはいい。みな明るいいい顔をしている。

 南さんから受け取った密書はぼくがうけとりここからカヤックで届ける。ナビ長ケイと相談。海上での記録について

「GOPROセットしてみましょう。」とケイ。

 海上での記録用だ。バウにバインダーで止める寸法だが、あまり気乗りしない。恐らくスイッチを押す余裕がないだろう。海中に落とす可能性も高い。状況がシビアだ。

「無線つけましょう」

「うーむ操作する余裕はないだろうなあー」

「聞くだけでも」

「うーむ」

 防水が弱い、恐らく海水を思い切り浴びるだろう。壊すのは目に見えている。

 無しで行く。

 剛哲丸乗船クルーは森、野口、嶋田さん(河内漁協)マド船長。

「いざというときカヤックを引きあげられるかなんだ」ケイと話す。

 カヤックの限界をこえて航行不能になった場合。何らかの原因でレスキューが必要な場合。25kg(もし水等入っていれば30kg)あるカヤックを波立つ海から剛哲丸に引き上げられるか。カヤックを捨てるという選択もあるだろう。

 剛哲丸の野口か森から間接的にコミュニケーションはいけるだろう。(実際フェリー上のケイから無線で連絡がとれていたのをぼくはあとで知った、フェリー後部の有料望遠鏡でこちらの視認もしていたらしい)この時点では50%は一旦出ても取りやめにする可能性があると思っていた。

 マドさんに「いまから10分後に出ます」と直接連絡。マドさんはそうかとうなずく。あんたがいくというならーそんなうなづきかただった。ぼくはいつもの埠頭の左の砂浜から。GOPROはバウのハッチにかませてみたものの、すぐに横にずれそうになったのではずし、浜にいるだれかに放って渡す。はずれては困るもの、濡れては困るものを気にしながら漕げない。

 恐らく沖合はある程度荒れている。不安な要素や気が散る要素は最初から除いておこう。

 11:40喜佐田が船尾をもちぼくが船首。持ち上げてカヤックを海へおろす。波が喜佐田の足を洗う。ひゃあと声をあげるキサッチ。なんとなく組織からはみ出しやすいキサッチ。

 熊本市東京事務所に2年ほど駐在(トン)していたがその間こっそり熊本へ帰っては電柱の影からArt-plexやその周辺を星飛雄馬の姉のように見守っていた。思いがけないときに街ででくわしたことが何度かあった。珍しい動物に森で出会うような感じだった。

 考えてみればそういう人物がArt-plexには多い。クセがあるというか。でもいいぢゃなひかそれで。それこそが人材だと思う。

 10人ほどが見送ってくれる。しかしこからは20kmぼくひとりだ。サポート船はいても自分が波と風に対処し前に進まなければならない。膝上まで海に乗り出し狭いコックピットへ。海はしっかりとボクを受けとめてくれた。スプレースカートをカヤックにセット。これでボクとカヤックは一体。軽く右手をふって「がんばれ!!」の声援を背に西に漕ぎ出す。カヤックの旅はたいていだれにも気づかれずひっそりといくものだが今回は違った。