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Street Art-plex Kumamoto

TRANS KYUSHU RELAY2017

海舟龍馬記念九州横断リレー/当日実施ドキュメント

 

作:KOHI HAYAMA

 

 密書を運ぶ飛脚、落ち延びていく武士たち、その家族。行倒れる者。凍るような雨の夜や、霧の朝もあっただろう。一体何人の人がここを通ったのか。かつての街道すじにそのかすかな気配が残っている。

 歴史にきざまれなかった多くの人々の足跡が,今、夜の底を走るぼくらの想像力をかきたてる。ぼくらはどういうわけでこの人たちとこんなことをやることになってしまったんだろう。巡り合わせこそ不思議だ。

 ひたひたと石を打つぼくらの足音。やがて少し開けたところにでてR-5は終わる。

 B-6は松下自転車隊長。20km。生真面目な男だが100km近いライディングを日常的にこなしている。しかしこの長丁場で車両運転をしつつライダーチームの調整と自ら夜間走行は初めての経験だろう。

 Art-plexの初代事務担当でもう15年ものあいだ担当をはずれ課がかわっても関わりが続いている。服をきているとわからないが足の筋肉が発達して4wdの自動車かボンレスハムのようだ。数年前急に痩せたときがあったので「病気か」と思ったがその頃自転車を始めたのだろう。松下修二郎は改造人間であった。仮面はかぶっていない。で竹田市役所あたりまで。

 夜明け前は最も闇が深いという。B-7、ワインディングの厳しい坂。R-1のランでぶっちぎりを見せた森部長が自転車で再登場。

 ハイエースのヘッドライトが孤独なライダーの背中を照らし闇に浮かび上がらせている。道の駅すごう、まで。ときに微妙に蛇行する森。苦しいだろう。

 心で応援しつつ見守る。(森の車載していた走行記録装置によると脈拍は平均135(分あたり)、で後半に向かってしりあがりに数値があがっていっていた)15km。暗く長い夜のトンネルを月とともに走る。戦う50代、森は見事なプレイをみせる。そして青紫の明け方まであと少し。

 夜明け、阿蘇から熊本市中心部へ、そして普賢の海へ

 渾身のちからを振り絞り、みごと役目を果たしたB-8ファイティングフィフティーズ森部長から再び松下改造ライダー長により九州のへそ、阿蘇カルデラ内へ、すでに大分県はあとにし、熊本県にはいっている。17km。空に明るさが見えてくる。松下はつりがちな足で滝室坂を一気にダウンヒルし、一宮坂梨公民館まで飛ばした。芯の強さが現れていた。

 R-9で再び桑本が阿蘇神社までの3km。いつもにこやかなので苦しくても笑っているように見える。ゴールした桑本は荒い息を吐きつつも冷え込む朝の空気に湯気をあげてたっていた。

 ここまでは夜を徹して走り続けてきた「佐賀関組」ががんばった。長かった夜。そのトンネルはもう終わる。

 B-10はライダー部隊の秘密兵器光安。リレーでのカンフル剤、フル装備の光安は只者ではない雰囲気を漂わせている。ここにきて夜は完全にあけた。

 阿蘇。内牧。青白い夜明け。阿蘇にすんでいるバイクトライアルのプロ,ナオがしばらく一緒に走ることになっていた。2002年のArt-plexの初期から大道芸に出演を続けていたNaoは昨年脳梗塞で倒れた。自分のショップ内で倒れたが気力で道まで這いずり出て救援を求めた。

 今回復しているが阿蘇を通るならNaoを参加させなければならなかった。この数年、地震、洪水、などで度重なる打撃を阿蘇は受けている。ここで頑張り続けるnaoをArt-plexの面々は気にしていた。

 Naoは朝の光の中でトライアル車をひいてやってきた。普通に挨拶するが実はとてもよろこんでくれていたようだ。

 今回の速度におけるKEYは自転車だ。江戸時代にはなかったアスファルトの道とこの乗り物が移動時間を短縮してくれる。走りは急な山道では短く設定しトレイルラン、ゆるい長い坂道、まちなかでの集団でのセクションはそれに適した走法、と道具と手段である程度合理的に配置してある。

 陽が昇って来た。朝の阿蘇は特別美しい。Naoと光安の縦列走。阿蘇神社からバイクショップNaoまでの走りをおえ、Naoのショップで少し休憩。応援のレッドブルをもらってわれわれはリレーにもどる。がんばれNao。

 ハイエースに乗り込むさいベンツをのぞくとナベ渡辺の顔色が悪い。木彫りの人形のようになっている。

 

 

 ー炭水化物欠乏症からくるピノキオ化、だいじょぶかなーと思うが先を急ぐ。記録の浅川も目の焦点があわず白衣を着せればちょっとトチ狂った科学者のようにみえるだろう。歩き方やしゃべり方がややオカシくなっている。

 いつものだみ声に寝不足と疲労が加わり、ゴロゴロと喉を鳴らしている。

 進行がはやいので撮影もたいへんなようだ。ムリもない、運転だけでもハードだ。コンピュータ系デジタル操作のことをやらせたら右に出るものはいない浅川コージには朝日は似合わないのかもしれない。

 おみやげは無事故でいいのおとうさんーと心の中でつぶやきつつハイエースのボクの居室へはいり、内側からぶら下がるようにしてデカイハッチをえいやとしめる。「バッツん!!」と閉まる。

 佐賀関組の疲労度が高い、特にサポート側のー足上げの寝転がり姿勢にもどり、ハイエースの天井をみつつ全体の流れに思い至らせる。距離的にはかなりきたが40%の達成率という感じか。計算に入れ忘れがちなのが疲労度だ。集中力があるうちはいいが過程がすすむと疲労度に応じてそれは低下し、ミス、事故につながりやすい。

 個人差もあるが全体における余力を棚卸ししてみる。プレイヤーは元気すぎるくらい元気だ。いけるだろう。この現象をどうみるか?

 運動量の多い方は比較的元気だが座りっぱなしのほうは疲労度が目に見えて高い。SUMOHSの耐久力はすごい。引き続き的確な指示が出ている。一定であること。これは大事だ。電池でも長持ちするやつがあるがあれだ。おそらく二人の中で予測とペース配分が計算されていたのだろう。

 光安は先行して直後的石まで、やはり予想通り速い。

 Naoのショップを出てハイエースの速度をあげて追随するが姿がなかなかみえてこない。カルデラの中に朝の光が注いでいる。まっすぐな道の前方かなたに光安の姿を発見。

 R-11はトレイルランの熟達者でなければ難しい二重峠までの急坂。野口、畑が再び登場、それと瀬井。のトリオ。森の中の石畳はひんやりと静謐な空気をたたえている。

 ハイエース他2台の車は迂回して峠の上で待つ。気温が低い。静かなカルデラの巨大な空間が眼下に広がっている。おどろくほどの速さであがってきたのは今回最若手のメッセンジャー瀬井だった。これは本当の忍者なみではないか。

 しばらくして畑をさきに野口隊長があがってきた。畑は峠をあがりおえると

 なよなよと崩れ落ちて荒い息を吐いている。野口はready Goのクセがぬけないらしくゴールの際やカメラに対しては必ず両手を斜め45度に向けてポーズ、プラスハイタッチをキメている。さすがハリウッド仕込みだ。(実際には行ったことはないとは思われる)

 B-12二重峠には商工会議所の原田が赤ちゃん、奥さんとともにすでにパープルのTKRシャツをきて待機。今回の最長セクション、阿蘇二重峠から熊本市子飼までの30Kmダウンヒルで時間と距離を稼ぐ。このリレーのブースター役といえるだろう

 外輪山を駆け抜け朝の大津をぬけほぼ0900時には子飼ベースへ到着。

 肥後銀行子飼支店の反対側に熊本市中心部をランでパレードするR-13のサポートランナーたち。とりあえず熊本市に到達したことでみなに安心感と達成感が広がる。

 子飼ベースにはきのう会いそこねた商工会議所のダイラー松平、や商店街のめんめん、前原、徳永、田尻、田近、潮永、窪寺、藤木、らがいた。ついに熊本市中心部に到達したのだ。皆元気だ。しばし歓談。事務局の人々。商店街の人々。

 ボクとハイエースほかは島崎のファミリーマートへ。そこからメッセンジジャー潮永、前原、徳永、田近、らほかラン部隊ほぼ全員でのパレードラン。上通、下通、新市街の中心商店街を通り熊本城をかすめて熊本市西側へすすむ。最後のメッセンジャーライダー南はB-14で塩屋漁港まで。ハイエースをファミリーマートの駐車場にいれると南はすでにきていた。

 ランナー、ライダーの移送でハイエースと連携を終夜とってきたベンツの渡辺がコンビニの内部でやっと温かいものにありついたらしく丼ものをすすっているのが見えた。すまなかったなべちゃんーと心で詫びる。

 昨日の夜はまるで死人のような土気色の顔でベンツのハンドルに突っ伏していたがこれで少し回復するだろう。よかった。(ランの森岡のいびきがすごくて仮眠がとれなかったらしい)

 ナビ隊SUMOHSは寝ていない。佐賀関までいった本隊もほぼ条件はいっしょだ。

 

 

 子飼発のランのチームが島崎ベースにはいってきた。野口隊長率いる畑、瀬井の佐賀関組もはいっている。畑は再びなよなよと両膝そろえて地べたに倒れてみせた。ムリもない。4回も走っている。不憫になってきた。

 そこからライダー4人で塩屋まで、気の早いご隠居南は「じゃあ」といって出ていった。バイクは複数でのパレードのはずだが。わらわらと後続の松下らがついていく。密書をもった南は停車したバスを抜いて(南式)いく「おーアブナいアブナい」の声がハイエース内で上がる。

 あとに続く3台の自転車はパープルのTKRシャツを背に整然とした走りを見せている。紫のTシャツ、パープルインパルスが島崎から地味な井芹川流域、高橋を駆け抜ける。

 松下、原田、森らはあの激闘のあとも余力を残し、安定したライディング、南をガードしつつ快走。交通量が多くなってきたため集団走行のTKRバイク団を追い越し塩屋へ先行する。

 道の脇の樹木が風で揺れている。海上に風が出ていることが予測される。海が見える場所に出た。案の定沖合に白波がちらちら出ている。

 ここまでの行程の重みとここからの行程K-15がぼくに問いかけている。この有明海に広がる風と波をどう思うか?と。普賢という母、阿蘇という父親が生んだこの海は今年最初の北風の通り道に今、なっているのかもしれない。かすかな緊張がぼくの背中に走りはじめた。もしあれが冬型の北風ならぼくの予測は誤りだったことになる。北風は11月のもう少しあとに吹くものと見込んでいたからだ。

初北風と海

 11:00時前に塩屋へ到着。

 マドさんの家の前にハイエースをとめる。後部ハッチをあげて外に出て中村正敏さん宅の呼び鈴をおす。奥さんのじゅんこさんに続いてマドしゃんが出てきた。第一声。

「(風が)出とるバイ」表情がシブい。潮風と日光にさらされた顔。

 きょうで会うのは4度目。マドさんのとる小さなヒイカは茹でたり煮付けにするとすさまじくうまい。白蝦もすごくうまい。

「しらえびはかき揚げが一番」というマドさん。

「どがんするね?」

「中止はなかっだろ?」中止せえとはいわない。

 しかし厳しい予測を立てている。漁船は風が強く作業が出来ないので出ていない。いまは海苔の植え付けシーズンらしい。話し合い。漁師の意見は耳を傾けるべきものだ。

 とにかく出てみて沖合3KMまでいって判断、ということにする。ここではまだわからないことも多い。岬ひとつまがれば局所気候がある。海の予測は天気予報では概況しかわからない。パドルそのほかの装備を乗せたカヤックを数名で浜まで。窪寺、松平、渡辺ら。

 懸念要素だった視程はクリア、普賢はよく見えている。

 防波堤ののぼりがバタバタと音を立てる。北西風。沖合は更に強いだろう。しかし今週始めのスカウティング時、台風直後の際に比べればもちろん弱い。なんとか時間の余裕は作れた。それは強力な味方だ。

 プレイヤーが必死に走ってくれたことがぼくにとって時間という余力になっている。このリレーは走り終えたランナーライダーはリカバリーに入る仕組みになっていてどこのセクションでもリリーフにはいることができた。人によっては複数のセクションをもっている。

 野口は4カ所のラン。自転車とランを両方やった森部長。3度走った畑。ぼくも2箇所ランに参加している。松下も複数個所を走ってくれた。各リーダーのモチベーションが高く、その行動がいい結果を生んでいた。

 ナビ隊と先行車両によるプレイヤー搬送,ピックアップ(渡辺NZ)、松下自転車トランスポート兼メカニック車両の動き、無線のおかげで連携と統制がとれていた。絶え間ない移動。すでに佐賀関から11時間、3日発の熊本港からは17時間たっている。ここまで本当によくやってくれた。

 やがて南を先頭としたB-14の自転車チーム4台が最後のくだりカーブを曲がって塩屋漁港へはいってきた。陸路はここで終わり。

 

 

 大潮の干潮ピークは15時。そこの潮どまりが好都合だ、とマド船長とは話していた。干満差の大きい有明海では潮の流れが中央と沿岸で違っていて長崎側の苓北とのせまいところは沿岸で時速14kmで流れているところもあるという。

 ぼくも体験的にそのことは知っていた。天草の北岸でカヤックでイルカの群れに遭遇し、追いかけているうちに予想外に流された。元の地点までもどるのにそうとう時間を使ったおぼえがある。海は池や湖と違い、常に流れている。本流も反転流もある。海水浴場以外では泳がない方がいい。遊泳禁止の看板は警告ではなく本気だと思うべきだ。

 河内女性の会の中川さんが赤飯とごはんのおにぎり、卵焼きを作って来てくれた。

「なあんね5人くらいかと思たらおおかねえ!」15人はいる。早起きして食べ物を準備してくれたのだろう。

 河内漁協の嶋田さんも出て来てくれた。塩屋でおきるこのできごとを喜んでくれていた。もってきた河内ののりの自慢をしながらかいがいしく手伝ってくれる。剛哲丸にのってついてくるという。

 日本の女性はありがたく、優しいものだ。波止場で風が吹く中みんなで食べる。日当りはいい。みな明るいいい顔をしている。

 南さんから受け取った密書はぼくがうけとりここからカヤックで届ける。ナビ長ケイと相談。海上での記録について

「GOPROセットしてみましょう。」とケイ。

 海上での記録用だ。バウにバインダーで止める寸法だが、あまり気乗りしない。恐らくスイッチを押す余裕がないだろう。海中に落とす可能性も高い。状況がシビアだ。

「無線つけましょう」

「うーむ操作する余裕はないだろうなあー」

「聞くだけでも」

「うーむ」

 防水が弱い、恐らく海水を思い切り浴びるだろう。壊すのは目に見えている。

 無しで行く。

 剛哲丸乗船クルーは森、野口、嶋田さん(河内漁協)マド船長。

「いざというときカヤックを引きあげられるかなんだ」ケイと話す。

 カヤックの限界をこえて航行不能になった場合。何らかの原因でレスキューが必要な場合。25kg(もし水等入っていれば30kg)あるカヤックを波立つ海から剛哲丸に引き上げられるか。カヤックを捨てるという選択もあるだろう。

 剛哲丸の野口か森から間接的にコミュニケーションはいけるだろう。(実際フェリー上のケイから無線で連絡がとれていたのをぼくはあとで知った、フェリー後部の有料望遠鏡でこちらの視認もしていたらしい)この時点では50%は一旦出ても取りやめにする可能性があると思っていた。

 マドさんに「いまから10分後に出ます」と直接連絡。マドさんはそうかとうなずく。あんたがいくというならーそんなうなづきかただった。ぼくはいつもの埠頭の左の砂浜から。GOPROはバウのハッチにかませてみたものの、すぐに横にずれそうになったのではずし、浜にいるだれかに放って渡す。はずれては困るもの、濡れては困るものを気にしながら漕げない。

 恐らく沖合はある程度荒れている。不安な要素や気が散る要素は最初から除いておこう。

 11:40喜佐田が船尾をもちぼくが船首。持ち上げてカヤックを海へおろす。波が喜佐田の足を洗う。ひゃあと声をあげるキサッチ。なんとなく組織からはみ出しやすいキサッチ。

 熊本市東京事務所に2年ほど駐在(トン)していたがその間こっそり熊本へ帰っては電柱の影からArt-plexやその周辺を星飛雄馬の姉のように見守っていた。思いがけないときに街ででくわしたことが何度かあった。珍しい動物に森で出会うような感じだった。

 考えてみればそういう人物がArt-plexには多い。クセがあるというか。でもいいぢゃなひかそれで。それこそが人材だと思う。

 10人ほどが見送ってくれる。しかしこからは20kmぼくひとりだ。サポート船はいても自分が波と風に対処し前に進まなければならない。膝上まで海に乗り出し狭いコックピットへ。海はしっかりとボクを受けとめてくれた。スプレースカートをカヤックにセット。これでボクとカヤックは一体。軽く右手をふって「がんばれ!!」の声援を背に西に漕ぎ出す。カヤックの旅はたいていだれにも気づかれずひっそりといくものだが今回は違った。

 

 空が広い。緑がかった明るい海。風の音。

 埠頭を過ぎ、ノリ筏の間を抜けて行く。右は有明海北部の佐賀沿岸がかすみ、前には優雅な裾野をひろげた雲仙、普賢岳、島原の沿岸。視線を遠くにのばせば天草、湯島も見える。さらに苓北、その向こうは東シナ海。マドさんと剛鉄丸は追随してくるはずだ。

 右側前方50mに海鳥、下にスナメリが数頭。中央部の荒れた海をさけややおだやかな海岸よりに集まっているのだろうか。あたりの海域に漁船の影はない。あれているということだ。すでにカヤックの船首は洗い波で常に濡れている状態。

 そのまま西へ直進。沖合へ。左から漁船、剛哲丸に似た船影。マドさんが前方に回るつもりなのだろう。ぼくはそのまま直進。風はある、がなんとかなるレベル。剛哲丸がこないので不思議に思いつつ前進。右後方からくる漁船を視認。あれかなとおもいながら前進。

 しかし4、50分足らず漕いだ頃、まだ剛哲丸の姿は近所にない。おかしい。

 ぼくは狐につままれたような気持ちでこの事態を分析した。

 何かが起きたのだ。剛哲丸のスタートを遅らせるようななにか。波にあわせてゆれるカヤック。風の音。

 メカのトラブルか。あるいはぼくを視認できない方向へ船を走らせたか。

「これはぼくを捕捉しそこなっているな」という判断が成り立つ時間がすでに経っている。

 しばし思案ののちきびすを返す。

 ぼくを視認できないということは受け取り情報としては行方不明を想定する、すなわち海上保安庁に連絡ということになり計画は中止という展開。それよりは塩屋にもどって島原にはフェリーでいって温泉でもはいりゃいい。次回につなげよう。塩屋まできただけでも十分じゃないか。

 すでに時間は1230時そこからもどって再出発は時間的に追い込まれる。中止の二文字だ。

 金峰山にむかってやや気持ちはダウン気味に漕いでいると左から船影やく2kmの距離、剛哲丸だ。

 声を限りに叫ぶ。

 風の音で聞こえはすまいが。先方でこちらを捕捉した動き。気配があった。

 やがて接近。右舷側に記録の森さん。大きく波の中でゆれている。塩屋側に舳先をむけたぼく。数十メートルまで近づいた。

「葉山さーん連絡無しで出ちゃダメですよおおお!」と森さん。大分心配したのだろう。

 瞬間。

「はなしはあとっ!!いくぞっ!!!」と声を限りに叫び返してパドルを右にいれ、舵を左にきって転回、きっぱり再び西に180度転針。いまここであやまったり弁解したり説明などしてもしょうがない。

 海の上では入り組んだ話は通用しない。今はいくかいかないか。可能性があるほうにいく。できない理由やらない理由はいくらでもある。ぎりぎりまで条件をととのえたらあとはふたつにひとつ。このときなにかがボクの背中を押したのだろう。時間的には今戻った分は許容範囲内だ。ぼくは再び西に向かって漕ぎ始めた。

 耳元でなる風の音。走る波の音。進行方向右、諫早方面からの強い風、波。ときおり低速でついてくる剛哲丸のディーゼル音がかきけされる。白波があちこちにあるが風による表層のもので大きなエネルギーをもった外海のそれとはやや違う。光も雲間からみえている。

 イケルと判断。右の海面に注意しながら前進。河内漁協の嶋田さんらが舷側から声援をくれる。風もいまのところ強くはならない。

 1時間ほど波をいなしながら進んだ。思えばリリーフサポート船つきというのはスポーツとしてみると全然OKだ。当初荒波も楽しい範疇といえた。実行するしないの限界点をもうひとつあげるためにはこれが必要だった。Art-plexには関わっている公的団体も多く、その公的責任の意味合いからも危機管理は入念にやっておくことが必要であった。

 日本の社会はこういった冒険的内容をもったものにたいしてはとてもクリティカルで許容範囲が狭い。傾向としてやる前に失敗を予測する。

 今回も基本的には止めもしないが勧めもしない。という無言の反応が内外にあった。ご存知のとおり日本の社会の場合母性型の保護する思考、志向があるのでそれが当たり前だ。

 アメリカなぞのイケイケな国とはそこが違いだ。幸いいろいろなことが起こり得るstreet ジャングルでの2百数十回の実働で鍛えられたArt-plex実施チームは「単なるハナシ」を現実化していくことが習慣として板についていた。机上の建前からくる理由や理屈で「じゃやめます」と言うはずがなかった。

 やれるはずだーと前提して思考を開始するのがわれわれのスタイルなのだ。